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弥生時代:全国の玉作遺跡の様子
弥生時代の玉作がどのようなものか、時代を分けてみてみます。
主な情報ソースは「日本海を行き交う弥生の宝石 in 小松」(2014)と「弥生時代における玉類の生産と流通:日本の考古学 弥生時代」(2011)です。
玉の生産地(玉作遺跡のあるところ)

管玉・勾玉の生産地

玉原石の原産地
玉原石の算出場所
出典:島根県立古代出雲歴史博物館
弥生時代の玉作は、碧玉・緑色凝灰岩の管玉作りが主体ですが、ヒスイ製の勾玉も作られており、新たにガラス製の管玉や水晶製の玉製品が作られます。
弥生時代を3期に分けて、碧玉・緑色凝灰岩の管玉の主要な生産地を図に示します。
くどいですが、報告されている「玉作遺跡」はもっと多いのですが、引用した著者が「主要」と判断した遺跡に、近江の新しく見つかった主要な遺跡を補追しています。
【前期〜中期前葉】
弥生時代前期に、最も古い管玉作りの技術が山陰や瀬戸内の遺跡に現れます。(図中:紫色の丸印−X技法と呼びます:詳しくは玉作学習室で解説)
この技術は、柔らかい緑色凝灰岩に用いられる玉作技術で、縄文時代の玉作技術とは断絶があり、それを引き継いだものではないようです。
当時はいろいろな石器を作っており、汎用的な石器製作技術を転用したもので、まだ稚拙な技法で一般化しないまま消滅します。
その後、X技法よりは進展したA技法の玉作技術が山陰に出現し、散在的に展開していきます。 この技術も軟質の緑色凝灰岩に適した玉作技術です。
【中期中葉〜中期末】
中期の初めごろに、硬い碧玉に適したB技法が開発されます。この技術が、山陰地方から北陸地方へ日本海沿岸地方に広がっていきます。同時に、原石を産出しないびわ湖周辺から淀川沿いの地域にも広がっているのが分かります。
この技法は、次に述べますが小松市の菩提産碧玉や佐渡島の碧玉に用いられました。
図中、青色で示す玉作遺跡では管玉に加えヒスイの勾玉が作られていました。
ほとんどが糸魚川産のヒスイで、希少さや形状の持つ神秘性なのか、高価な玉として珍重され朝鮮半島にも輸出されました。古墳時代には装飾よりも威信材として用いられました。
【後期】
後期になると小松市の菩提産碧玉の流通システムが崩壊し、近畿一円での玉作がなくなります。
中期末から後期初めにかけては、近畿・瀬戸内で大きな社会変動があり、大きな集落が消えて停滞する時期です。中期に盛んであった銅鐸作りも一時的に中断する時です。
近畿一円の玉作停止は、この大きな社会変動の影響を受けている可能性があります。
この結果、北陸と山陰地方に特化した玉作が行われます。
弥生時代中期末から鉄器が導入され、玉作技法も鉄器の利点を生かしたC技法になります。
ヒスイの勾玉は特定の工房で継続して作られます。

ガラス玉製品、水晶玉

【ガラス玉製品】
ガラス製玉製品には、勾玉、管玉、小玉などがあります。
弥生時代前期末ごろに、朝鮮半島からガラス玉が北九州へ入ってきます。北九州から他の地域への移動はなかったようです。
ガラス石管玉 ガラス製丸玉
ガラス石管玉 写真:吉野ケ里歴史公園 ガラス製丸玉 写真:田原町教育委員会

中期後半になると、北九州で輸入品を見本としたガラス製勾玉・管玉の生産が本格的に始まります。
これらも北九州内で消費されていました。中期末にはガラス製管玉の生産は減少し、後期には小玉を多量生産するようになります。しかし、ガラス素材だけは、ずうっと大陸製を朝鮮経由で入手していました。
中期後半になると、九州経由か朝鮮から直接か、丹後半島へガラス玉の製造技術が伝わります。
これを機に、丹後半島の王陵ではガラス製品の埋納が増えていき、後期には玉類副葬品の主体はガラス製品となります。
その後は、ガラス製玉の技術が近畿・東海・瀬戸内へと広がり、後期後半には列島各地へと拡散していきます。
【水晶玉】
水晶の玉作りは、弥生時代中期後葉に丹後半島の奈具岡遺跡で、中期末から後期初頭にかけて鳥取県の日本海沿岸部で突如始まります。後期後葉には鳥取県や富山県の日本海沿岸の遺跡でも生産が始まります。
水晶は硬度が高く(モース硬度7)、鉄器の加工具の導入で可能になったものです。形状は算盤(そろばん)玉か切小玉に限られています。
大きさは各所でまちまちで、バラツキが大きくなっています。
原石と玉作生産地の関係
玉原石の原産地
原石の原産地と使用地域
出典:鳥取県埋蔵文化財センター
次いで、上に示した地域の玉作遺跡がどこから碧玉・緑色凝灰岩の原石を入手していたか、どんな手法で玉製作をしていたか、を図に示します。
【前期〜中期前葉】
柔らかい緑色凝灰岩を使った玉作りが山陰〜北陸西部で始まります。手法はA技法ですが、早い時期には、少数・短期間ですがX技法を使っていました。 緑色凝灰岩は広い範囲に分布しており、地元産の原石を使っていたようです。 中期初めには近江でB技法を使った碧玉の玉作遺跡が出てきます。
【中期中葉〜中期末】
山陰東部〜北陸西部、近畿地方で、碧玉を使った玉作遺跡が次々と出てきます。主として小松市の菩提産碧玉を原石として、硬質の玉加工に適したB技法で玉が作られます。
原石がかなり広い範囲で流通していたことが分かります。
ただ、玉谷産の碧玉は狭い範囲で使われました。 
佐渡の猿八産碧玉はほぼ佐渡で使われ、同じB技法ですが、専門的にみると違いがあるようです。
【後期】
小松市の菩提産碧玉の供給が止まり、近畿だけではなく、山陰東部〜北陸でも碧玉の製作は滞ります。
中期に栄えた佐渡の玉作遺跡は後期には見られなくなります。これも理由は分かっていません。
緑色凝灰岩を使った玉製作は、山陰の一部、北陸西部で続けられます。硬度が高い松江市花仙山産の碧玉は、鉄器の出現によって使用可能となり、地元と北九州で使われ始めます。

これらをまとめたものが次の表です。
石材と生産地
弥生時代の管玉生産とと石材・色の関係  出典:鳥取県埋蔵文化財センター
玉製品の流通

管玉・勾玉の生産地と流通

玉原石の原産地
原石の原産地と使用地域
出典:鳥取県埋蔵文化財センター
上で、碧玉・緑色凝灰岩の原石の産地と玉作加工地の関係を見ましたが、ここでは碧玉・緑色凝灰岩製管玉の加工地と消費地の関係を見てみます。
【前期〜中期前葉】

朝鮮半島から主として北九州、一部、山陰東部や四国に管玉が入ってきます。
朝鮮半島からはガラス玉が北九州に入ってきますが、北九州に限定されます。
山陰でも緑色凝灰岩を使った管玉が作られ、西日本に供給されます。
【中期中葉〜中期末】
北陸西部で玉生産が始まるとともに、原石がびわ湖南部〜淀川水系に供給され、山陰東部にも原石と製品が供給されます。
びわ湖南部や山陰東部は、どちらかというと中継地で、ここで玉生産をしてさらに近畿や中国地方の消費地へ送り出していました。
山陰東部も中継地と加工地で、ここで玉生産も行い、さらに一大消費地である北九州へ送っていました。
佐渡島は一歩遅れて玉作遺跡が出現しますが、多くの遺跡が密集しているのが特徴です。ここで作った玉製品は、地元で消費されることなく、中部圏、関東圏へ輸出されていました。
朝鮮半島からの管玉供給は一時ストップします。
【後期】
玉生産地に大きな変動が起きます。近畿一円で玉生産が停止します。びわ湖周辺の玉作遺跡もなくなります。日本海側では玉作が継続していました。
佐渡島の玉作遺跡が無くなります。しかし、佐渡猿八産碧玉を使った玉製品が関東で見つかっており、どこかで玉生産が行われていたようです。
朝鮮半島からの管玉が再び北九州へ流れ込みます。
北九州は、その一方で、松江市花仙山産の碧玉を使った玉作を始めます。また、ガラス工房が見つかっており、ガラス製勾玉や丸玉の生産も行い、これらは地元で消費されます。
後期後半になるとびわ湖北部で玉作が再開されます。

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