弥生時代:近畿地方の玉作遺跡
朝鮮半島から伝わった玉作技術は緑色凝灰岩の産出する山陰・北陸に伝搬しますが、近畿地方でも北部近畿は、山陰と北陸の接続点でもあり、緑色凝灰岩の産地でもあります。そのため、北近畿では早くから玉作が始まりました。北近畿から当時の交通大動脈であるびわ湖〜淀川を経由して、玉作技術が近江、近畿の地区に伝わったようです。
主要な遺跡の分布
出典:近江における弥生玉作研究(黒坂秀樹) |
遺跡の分布は図の通りですが、規模も勘案して分布を見ると;
A 丹後北部
B びわ湖 湖北
C 湖南 野洲川下流域
D 淀川中流域
に玉作遺跡が集中しています。
B びわ湖 湖北
C 湖南 野洲川下流域
D 淀川中流域
AとCには早くから玉作遺跡が現れたところで、その後も繁栄をつづけたようです。
Bは原石のある北陸に近く、C地点と北陸を結ぶ中継地として繁栄したと思われます。DはC地点から、大阪湾に抜ける交通路の利点を活かして玉作が行われたのでしょう。
近畿地方の玉作遺跡の様相
これまでに発掘された範囲内での考察になりますが;
- 弥生時代中期初め(前期末という説もある)に、丹後北部に一歩遅れたものの、いち早く湖南の 草津市烏丸崎遺跡で玉作が始まりました。近畿で最も早い時期の玉作遺跡です。
- それに続き、琵琶湖周辺、淀川流域に玉作遺跡が現れます。
- しかしながら、大和を含む近畿南部には玉作技術は伝わらなかったのか、玉作遺跡が見つかっていません。このことは、C、D地区からの玉製品の搬入が示唆されます。
- 野洲川下流域に多くの玉作遺跡が営まれます。これらの遺跡間隔は狭く、後の佐渡島や出雲並みに 密集しています。
- これらの玉作遺跡も弥生時代中期までで、後期にはびわこ周辺、淀川水系の玉作遺跡が活動を 止めてしまいます。
- 後期後半になって湖北で大規模な玉作遺跡が出現し、古墳時代早期に続きます。
- 尼崎市(大阪と兵庫の境で大阪湾岸)の田能遺跡では多量の碧玉管玉が墳墓より出ており、ここ に持ち込まれた管玉もあると推測されます。