古墳時代:近江の玉作遺跡
古墳時代の近江の玉作遺跡の様相は、上で述べた畿内の玉作遺跡と需要の傾向の下で 読み解く必要がありそうです。
近江の玉作遺跡の分布
大岡由紀子さんの「南近江における滑石製玉生産」をベースに追補しています。
玉作遺跡分布
出典:近江における弥生玉作研究(黒坂秀樹)をアップデート |
玉関連物の出土量(除 砥石)
●:1kg以上
● :拠点集落
◎:1kg〜100g
●:100g未満
弥生時代にも玉作遺跡も多くありましたが、びわ湖岸から氾濫原にかけて多く存在していました。古墳時代の玉作遺跡は陸側の氾濫原と扇状地の境界付近〜扇状地に存在しています。
遺跡間距離は短く、弥生時代と同じような密集の状況です。
玉作遺跡一覧
上の遺跡分布図の番号に対応して、遺跡からの出土遺物、遺構を一覧にまとめています。古墳時代の玉作の様相は、前期と中期の間で大きく違います。
中期になると、それまでの硬い碧玉や緑色凝灰岩から柔らかい滑石を使った玉作が主流となります。
図に示した玉作遺跡の一覧は、栄えた時期により前期と中期に分けて示しています。
番号 | 遺跡名 | 判定 | 出土量 | 出土遺物・遺構 | |||||||
玉類 | 原石 ・剥片 | 碧・緑 玉 | 滑石玉 | 滑石 模造品 | 特殊玉 | 工房 | |||||
古墳時代早期・前期の遺跡 | |||||||||||
2 | 物部遺跡 | C? | ● | 〇 | 〇 | 〇 | 水晶 メノウ | 〇 | |||
3 | 鴨田遺跡 | C? | ◎ | 〇 | 〇 | 車輪石 | |||||
12 | 金森西遺跡 | C | ● | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | |||
古墳時代前期・中期以降の遺跡 | |||||||||||
1 | 高月南遺跡 | C? | ● | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | ガラス玉 紡錘車 | 〇 | |
5 | 阿比留遺跡 | D | ◎ | 〇 | 〇 | − | 〇 | 〇 | |||
6 | 播磨田東遺跡 | C* | ● | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | |||
11 | 金森東遺跡 | C | ◎ | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | − | 〇 | ||
15 | 辻遺跡 | C* | ● | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | − | 切子玉 ガラス玉 石釧 | 〇 | |
16 | 岩畑遺跡 | C* | ● | 〇 | 〇 | − | 〇 | − | |||
古墳時代中期以降の遺跡 | |||||||||||
4 | 川原田遺跡 | D | ● | − | 〇 | − | − | − | |||
7 | 堂ノ北原遺跡 | C | ● | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 水晶 ヒスイ | 〇 | |
8 | 岡遺跡 | D | ● | − | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | |||
9 | 吉身北・南遺跡 | C* | ● | 〇 | 〇 | − | 〇 | 〇 | 水晶 | 〇 | |
10 | 吉身西遺跡 | C* | ● | 〇 | 〇 | − | 〇 | − | 〇 | ||
13 | 横江遺跡 | C* | ◎ | 〇 | 〇 | − | 〇 | 〇 | |||
14 | 古高遺跡 | C | ● | − | 〇 | − | 〇 | − | |||
17 | 林遺跡 | D | ● | − | 〇 | − | 〇 | − | |||
18 | 蜂屋遺跡 | D | ● | 〇 | 〇 | − | 〇 | − | |||
19 | 中沢遺跡 | D | ● | 〇 | 〇 | − | 〇 | − | |||
20 | 門ヶ町遺跡 | D | ● | 〇 | 〇 | − | 〇 | 〇 | |||
21 | 柳遺跡 | C | ◎ | − | 〇 | 〇 | 〇 | − | |||
22 | 中畑遺跡 | D | ◎ | 〇 | 〇 | − | 〇 | − | |||
23 | 谷遺跡 | C | ● | 〇 | 〇 | − | 〇 | − | 〇 | ||
24 | 御倉遺跡 | D | ● | 〇 | 〇 | − | − | − |
出土遺物・遺構; 〇:該当品あり −:該当品なし
判定 ; C:有力首長層による拠点集落内の玉作工房 C*:他の手工業も兼ねている遺跡
D:中小首長層による集落内の小規模玉作工房
出土量 ; ●:1kg以上 ◎:1kg〜100g ●:100g未満
近江の古墳時代玉作遺跡の主な出土遺物
出典:南近江における滑石製玉生産(大岡由紀子)、集落における玉作(大岡由紀子)をアップデート
近江の玉作遺跡の特徴
古墳時代早期 畿内&畿内周辺で、他に先駆けて玉作再開
弥生時代後期には玉作の生産を停止していた近江地域も、古墳時代に入ると近畿&近畿周辺では、湖北地方が他に先駆けて管玉生産を再開しました。湖北での管玉生産再開と停止、その後の北陸での碧玉製石製品の生産開始については、ヤマト政権の政治的な思惑があるように感じられます。
「新しい政権で新しい石製品」という図式です。卑弥呼政権が銅鐸の祭りを止め、大陸の祭祀や鏡を導入したやり方に通じます。
古墳時代中期 畿内の玉作遺跡と盛衰を共にする
出典:南近江のおける滑石製玉製品 (大岡由紀子)をグラフ化 |
中期に入ると、北陸の生産が衰退し近江で滑石玉作りが盛んになります。数多くの玉作遺跡が密集して存在します。同時に畿内−主に大和で滑石の玉作が始まり盛んになっていきます。
滑石製品の需要が増大する中期中ごろから後期に初めにかけて遺跡数がピークに達します。
近江では、野洲川下流域に玉作遺跡が集中し、その中核として大規模な辻遺跡が出現します。
後期中ごろまで、大和と共に一貫して玉作を継続し、後期後半、同時期に衰退してきます。
拠点玉作遺跡と小規模玉作遺跡
近江の玉作遺跡の生産品種、生産量(出土した石材の総量より推定)から推定すると、大和の曽我遺跡、河内の高安遺跡に似た性格の拠点玉作遺跡がありました。それが渡来系集団の栗東市の辻遺跡です。全体の生産をコントロールするような玉作拠点集落−辻遺跡があり、周辺集落にも中規模の玉作遺跡が存在します。野洲川下流域には、もう2か所石材の出土量の多い玉作遺跡があります。1つは谷遺跡で詳しくは後ほど述べますが、石材管理集落で各地に石材を供給していたように見えます。もう1つが門ヶ町遺跡です。
また、玉作関連遺物がごく少量の「玉作関連遺跡」も多くあります。臨時的に玉作りを行っていたのか、小さな集落でも自分用の玉を作っていたと考えられます。