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玉の基礎知識:玉の価値
玉の価値は時代によっても変わるのでしょうが、使用方法、使用量から推察してみます。
玉の価値は?
玉製品は首長層(少数の有力者)しか使えなかった特別な品物ですが、どれくらいの価値があったものでしょうか?
時代や素材によっても違うだろうし、形状によっても違ってくるでしょう。
ヒスイなどの宝石にあたるもの、硬度が高く加工の難しいものは高価で、柔らかく量も多い滑石は安価でしょうし、使われ方から推測してみます。

原石の価値は?

最初は朝鮮半島からの碧玉製やガラス製の輸入品を使っていました。どれくらいの対価を払っていたのでしょうか?
碧玉製の玉は直ぐに国産化が始まります。時代と共に玉製品の需要が増大していき、生産性を上げるために用いる原石の主力は
 (弥生時代)碧玉⇒緑色凝灰岩⇒(古墳時代)滑石⇒ガラス と移っています。
硬度は低くなって加工しやすくなるものの、色は濃い青緑色から薄い色・白みがかった色になっていきます。玉製品の主力となる原石が移り変わっていくものの、碧玉や緑色凝灰岩も使われ続けていました。
原石の価値はどうのように見られていたのでしょうか。
現在、私たちの身近にある品物に感覚的に例えると;
碧玉類      ⇒ 金製品    (メノウ・ヒスイ⇒純金、碧玉⇒18金)
緑色凝灰岩    ⇒ 黄銅・青銅製品(硬質品⇒金メッキあり、軟質品⇒金メッキなし)
滑石       ⇒ 木材製品   (滑石模造品 ⇒木彫品)
ガラス(古墳後期)⇒ プラスチック

これはあくまで個人の感覚です。

魏志倭人伝に記載された玉)

【壱与の朝献】
魏志倭人伝には、倭国の特産品として「真珠」と「青玉」が記されています。
卑弥呼が魏に特使を送った時の朝献品には「玉」は見当たりませんが、卑弥呼を継いだ壹與が魏へ朝献したときには玉を贈ったことが記されています。
魏志倭人伝より
「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹」
現代訳は
「壱与は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。そして、 臺(中央官庁)に至り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なる 雑錦二十匹を貢いだ。」
白玉5000個と青くて大きくまがった青い玉(ヒスイの勾玉と考えれれる)2個を贈っています。
【玉の価値は】
白珠、青大勾玉とは何か、考古学者の間でも議論になっていますが、青大勾玉はその字の通り碧玉かヒスイの勾玉でしょう。白珠は真珠という説が一般的です。貝殻であるという説もあります。
そうなんでしょうか?
魏志倭人伝には2か所で「真珠」という言葉を使っています。わざわざ白珠と書きしかも孔が開いている、としています。青くて大きい勾珠の「珠」と同じ用法です。当時の用語の意味の解釈は難しいのですが、貝殻の細工品が「珠」とは思えないし、古墳時代中期に出現する滑石では時期が少し早いし、とは言え、滑石の玉の可能性も無くはないし・・・。
ということで、滑石製玉を前提にして話を進めると;
生口(奴隷)30人、布20匹と共に贈られており、それと同じような価値レベルの品として孔の開いた白玉5000個、ヒスイの勾玉2個があるのでしょう。
ヒスイの勾玉1個は生口15人とか布10匹くらいの価値があったと推測できます。また、白珠(滑石として)2500個分くらいの価値であることが分かります。
原石の価値と加工のむつかしさ(硬度)から考えると、それだけの価値があったということでしょう。

埋納された玉から考える

被葬者が身に着けていた装身具がそのまま埋納されるので、ファッション性を考えた構成(例えば勾玉と管玉の組合せ)になっているはずです。したがって、一人の被葬者の玉製品を見て、構成要素の数から価値判断するのはまずいかも知れません。しかし、高位者は高価な玉を多用し、そうでない者は、安価なものを多用すると思われます。あるいは経済的な側面もあるでしょう。
ただ、弥生時代と王権が確立していく古墳時代とでは、玉製品の価値付けが違ってきます。玉製品が政治的な配慮の下で配られるようになり、序列を示す、例えば勲章のような物になるからです。
それでも、多数の埋納例を調べると、数量の割合と価値が比例してくると考えました。
【弥生時代の北九州】
「九州弥生人の勾玉・管玉と北陸」(熊本大学 木下尚子)[日本海を行き交う弥生の宝石 in 小松]に北九州の有力者の甕棺墓に副葬された玉、青銅製品の分析がされています。
吉竹高木遺跡群(甕棺墓等900基)、宇木汲田遺跡(甕棺墓129基)、中原遺跡(甕棺墓281基)の内、玉が副葬してある墓の管玉とヒスイ勾玉、ガラス玉の数が書かれています。
ヒスイ勾玉:22個、  碧玉管玉:約950個、  ガラス玉:約320個
玉製品が副葬されていない墓がほとんどで、この玉は「有力者」と見做される人の墓から見つかったものです。
この時代には滑石製品はまだないので、ヒスイ勾玉と碧玉管玉の価値比較ができます。
ヒスイ勾玉1個は、碧玉管玉40〜50個分の価値だと推定できます。
この時代のガラス玉は朝鮮半島から来たものとやや遅れて北九州で始まったものが混在しており、古墳時代後期に多量生産されるガラス玉に比べるとまだまだ高価なものだったでしょう。ガラス玉が碧玉製管玉より少ないのはそのような情勢かもしれません。
どこから伝わり、どのように広がったか?

どこから伝わったか?

石器時代・縄文時代から玉製品はありました。しかし、縄文の玉製品と弥生の玉製品には技術的な継続性はなく、技術の画期があると言われています。
まず、用いる原石が滑石・ロウ石から碧玉製の石に変わります。それに伴って加工技術、加工用道具(石器)が変わります。また、製品の寸法が小さくなりそこに細い孔を穿つという技術の革新が必要となります。一番のポイントは微細加工技術とそれに必要な道具を作ることでしょう。
弥生時代に北九州に現れる玉作は、朝鮮半島から装飾品として伝わり、製品と共にに技術を持った工人が来て、玉作技術が日本に伝わったと考えられます。

どのように広がったか?

渡来した玉作集団が日本の石器製作技術に長けたものに玉作技術を伝え、初期玉作の集団が構成されます。渡来人を含めた初期の玉作集団が日本各地に分散して、その地で玉作集団を育てる、という構図が想定されます。あるいは、伝わった管玉を見て見よう見まねで玉作をする可能性も考えられますが、微細加工技術の革新性と玉原石、工具用素材の入手など考えると無理と思われます。
これまでの発掘調査で判明している玉作遺跡の分布では、最初に伝わった北九州では玉作遺跡が見つかっておらず、山陰と山陽でわずかに初期の玉作遺跡が認められます。
玉作技術の本家である朝鮮半島では玉作遺跡は多くは見つかっていません。初期の玉作技法(X技法)は未だ稚拙であり、この技術が朝鮮半島から伝わったものなのか、上では否定しましたが、真似して作った技術なのかは判りません。
その後も、原石や道具となる石を探して日本海沿いに東進し、山陰や北陸で玉に適した緑色凝灰岩を見つけ、ここで玉作が始まったようです。

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