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玉の基礎知識:作り方・使い方
玉はどのように作られたか
玉作遺跡から玉製品の加工途中の未製品が出土します。意図をもって割った剥片や屑石も見つかります。加工に使った工具類も出土することがあります。
加工痕の残る未製品や剥片を観察することによって、当時の玉加工技術の様子が分かるようになってきました。

玉の原石

玉、石製品の原石の種類はすでに述べていますが整理すると;
ヒスイ(硬玉と軟玉)、メノウ、水晶、碧玉、緑色凝灰岩、滑石があります。 原石ではないもののガラスも玉作に用いられます。
【考古資料で用いられる石材名のあいまいさ】
玉作の文献・資料や発掘調査報告書などで、玉の素材が書かれている場合、解釈に注意が必要です。
「碧玉」と書いてあるとき、
@鉱物としての碧玉そのものを指す
Aヒスイや硬質の石英系岩石の総称として使う。ただし、緑色凝灰岩とは区別する
B上のケースに加え、緑色凝灰岩も含む緑系の岩石の総称として使う
などのケースがあります。用語の使い分けを記している資料・報告書もありますが、書いていない資料・報告書もあるので注意が必要です。
このホームページでは、Aのケースとしますが、ヒスイは「ヒスイ」と称し、「碧玉」には碧玉、赤玉(鉄石英)、水晶等の硬質岩石の総称として使います。緑色凝灰岩は可能な限り区別して用います。
「滑石」も通称であり、鉱物学的には滑石、蛇紋岩、蝋石、泥岩、頁岩、緑泥片岩などに分かれます。
考古学の研究者もこのことは認識し、正確な分類も試みられていますが、長年使われてきた慣習的な分類をいまさら変えることは難しいようです。

玉の作り方(加工工程)

出土する加工途中の石の観察により、加工工程はいくつかあり、使う原石の硬さによっても用いられる加工技術は違っています。
弥生時代前期〜中期は石の工具を使っていましたが、後期には鉄器が使われるようになり、加工手法も変わってきます。 管玉を作る大まかな工程を図に示します。
工程の呼び方を上段に、工程ごとの石の呼び方を下段に書いていますが、必ずしも統一された呼び方でなく、研究者によってまちまちですが、素人にとってイメージしやすい呼び方を採用しました。 玉の製作工程
管玉の加工工程 イラスト:田口一宏 (原典:島根県立古代出雲歴史博物館)

溝切り
溝切り(施溝) イラスト:田口一宏
この図では示していませんが、石鋸(いしのこ)を使って石に切り目を入れ、そこを叩いて割る方法が採られていました。
この方法により、切った溝に沿って真っすぐでほぼ平らな面の形割石が得られます。
凸凹のある直方体から平らな面を得るために出っ張りを叩いて凸部を削り取って面状にする方法を使うこともあります。その後、砥石で研磨して滑らかにします。
最後の工程では石の錐(きり)や石針を使って孔を開けます。

玉の加工技法

以後、玉の加工技法が出てくるので、簡単に記しておきます。 使う原石の性質(割れやすさ、柔らかさ、割れ方など)に対応して、適切な方法が開発され使用されました。 地域によって若干の違いがあるものの、管玉作りは、本体の基本となる直方体を得るためのやり方で、大きく4つ(X、A、B、C)に分けられます。
1.X技法(正式名:長瀬高浜技法)
・柔らかい緑色凝灰岩に適した技法
・石を次々と打ち割って直方体を得る(初歩的な方法)
[紙に例えると:薄い紙を両手でビリビリ裂いていく]
2.A技法(西川津技法)
・柔らかく板状に割れる緑色凝灰岩に適した技法
・石を、まず板状に割り、一定の厚さになるよう研磨する
 次いで、一定の幅に石鋸で切れ目(1~2mm幅)を入れ、そこから叩き割って直方体を得る
[紙に例えると:薄い紙に折り目をつけて裂きやすくし、折り目に沿って破る]
3.B技法(大中の湖技法)
・硬い碧玉に適した技法(小松市の菩提産碧玉)
・石に石鋸で切れ目を入れ、叩いて割る。これを繰り返す
 石の欠陥部分を確認しながら良い部分を残しながら直方体を得る
[紙に例えると:厚紙に先端の尖ったもので筋を付けて弱くし、そこから破る]
4.B技法(新穂技法)
   同上(佐渡島の猿八産碧玉)
・直方体の角(稜線)を削り取る方法が、大中の湖技法と異なる。
5.C技法(布施技法・加賀技法)
・どの石にも適した技法で、鉄器を使う
・鋭いたがねで次々と割っていく
[紙に例えると:どんな紙でもハサミでジョキジョキ切っていく]
6.共通:円筒形に磨き孔を開ける
  X〜B技法は石針、C技法は鉄針を使う

詳しい工程は「学習室」で
玉はどのように使われたか

玉の形と使い方

同じ「玉」と言っても、時代によって使い方や材質が違ってきます。
細かく見ると地方によって異なりますが、大まかにみると縄文時代、弥生時代、古墳時代前期、古墳時代中期〜の各時代で分けられます。

縄文時代滑石・ヒスイ玉製品垂飾、垂珠⇒ペンダント、耳飾り
弥生時代前・中期緑色凝灰岩・碧玉玉製品頭飾り・首飾り、 腕輪
中期(九州) +輸入ガラス玉製品  同上
後期 +国産ガラス玉製品  同上
古墳時代前期碧玉・緑色凝灰岩玉製品頭飾り・首飾り、 腕輪
碧玉玉製宝品石製腕飾品
中期滑石・ガラス玉玉製品頭飾り・首飾り、 腕輪
滑石玉製模造品祭祀
後期ガラス玉玉製品頭飾り・首飾り、 腕輪
 滑石は衰退玉製模造品祭祀
【縄文時代】
縄文時代の使い方
縄文時代の使い方  イラスト:中井純子
縄文時代はヒスイも使われますが、全般に柔らかい原石が用いられていました。
勾玉もありますが、涙型や楕円、棒状に形を整えた石に孔を開け、吊るして使ったようです(懸垂)。
垂玉(たれだま)と呼ばれており、ペンダントのような使い方でしょう。
【弥生時代】
弥生時代になると、中国・朝鮮半島から新しく伝わった技術で碧玉以外に緑色凝灰岩を用い、管玉が作られるようになります。管玉は、弥生時代初期に朝鮮半島から大陸の装身法として北九州に伝わってきたものです。管玉だけまたは勾玉を管玉で挟む朝鮮系の装身具(ネックレス、ブレスレット)として使われました
弥生時代中期には朝鮮半島から多量にガラス玉が北九州に流入します。これらは北九州に限定して用いられました。弥生時代の後期になると北九州ガラス玉が作られるようになります。主な製品は管玉・丸玉で装身具として使われます。
弥生時代の玉の装身方法も研究されていて、棺の中に残された多数の玉製品の位置から、首飾りというよりは頭飾りとしての装身方法を提示しています。
棺に横たえられた人体の位置と玉製品の位置から、頭を取り巻く形であったと推定。
玉製品で身を飾った人は、特に大きな権力を持った限られた「大首長」、「大王」でした。
頭飾り
頭飾 出典:初期倭王権と玉(伊藤雅文)  復元想像:藤田等

弥生時代の使い方
縄文時代の使い方  イラスト:中井純子
【古墳時代】
古墳時代の特徴は滑石の多用で、管玉や丸玉が多量に作られ装身具として使われました。
もう一つの特徴は、玉製品ではなく物の形を模した石製品(石製模造品や石製宝飾品)を作り始めたことです。
石製品は、前期には碧玉・緑色凝灰岩を用いた精巧な形状の鍬形石(くわがたいし)、石釧(いしくしろ)や車輪石(しゃりんせき)などが作られます。これらは腕飾りとされており、石製腕飾とか石製宝器とも呼ばれます。装身具から威信具へと意味合いが変わっていきました。
儀仗の先端に付けたと思われる複雑で精巧な玉製品も現れます。
中期になると柔らかい滑石を用いた剣や刀子、紡錘車などのシンプルな形の石製模造品が作られます。
装身具ではなく、祭祀のときに用いる供物としての使い方です。
玉用の石として水晶やメノウなども用いられますが、量的には少ないです。
後期も中ごろになると、ガラス玉が主体となり多量生産が顕著です。後期末には玉そのものの生産が終わります。
玉が出土するところ
このホームページでは、「玉作(生産)遺跡」に主点を置いていますが、出土する場所についても少し考察してみます。最終的に出土する場所が実際の使用方法であった、とは言えないのですが、玉が出土するのは圧倒的に墳墓(弥生時代)や古墳(古墳時代)からです。
そのほかには、祭祀で用いられたと考えらえる川辺や建物付近から少量出土します。
【墓での埋納】
玉製品は権威者の装身具として使われ、死後は木棺に遺体とともに埋納されました。
弥生時代は、高位の権力者しか使えなかったようで、特に大きな墳墓でしか見つからず、玉の出ない墳墓が数多くあります。時代を経るとともに、一般化していき古墳時代には多くの古墳で玉が出土します。
北九州では弥生時代の多くの甕棺墓から青銅製品などと共に玉製品が出てきます。また北陸の弥生時代の墳丘墓からも多くの玉製品が出てきます。
北九州は「玉作遺跡」が見つからない地域なのに多くの碧玉・緑色凝灰岩の玉が埋納されています。
朝鮮半島からのガラス玉(のちには北九州でも生産)も多く埋納されています。
北陸地方の墳墓からも多くの玉製品が見つかりますが、近くに多くの「玉作遺跡」があるところです。
一つの墳丘墓で多数の玉が出土する例として、兵庫県尼崎の田能遺跡があります。
17基の木棺墓や甕棺墓の一つから632個以上の碧玉製管玉が胸部付近から見付かっています。管玉ばかりで勾玉は見つかっていません。平成13年に次に述べる京都府の日吉ヶ丘遺跡で玉製品が見つかるまでは、田能遺跡が日本で最多の管玉が発見された墓でした。
平成13年に丹後の日吉ヶ丘遺跡で特別に大きな墳丘墓が発見されました。多くの墳丘墓がある中でその特別な墓から、頭飾りと見られる管玉が677個も発掘され、全国最多の管玉発見となりました。 この2例からも分かるように、どの墳丘にも管玉が埋納されたのではなく、最高権威者だけが多くの玉で身を飾っていたようです。
田能遺跡から玉作関連遺物が少量見つかっており、ここで管玉を作っていた可能性がありますが、多くは近畿各所など、他所から運ばれてきたものでしょう。
日吉ヶ丘遺跡自身は玉作遺跡ではないものの、10km圏に大きな玉作遺跡が複数存在するので、地元で作られた管玉を使っていたと考えられます。
野洲川下流域では、滋賀県烏丸崎遺跡で100基を超える方形周溝墓の内、最大級の墓から2連の腕輪が出土しています。烏丸崎遺跡では玉作遺跡も見つかっており、ここで作った玉製品を権力者が使い、埋納されたのでしょう。
【その他の場所】
その他の場所での出土は少ないのですが、祭祀での供物として数個が用いられたケースがあります。
野洲川下流域では、滋賀県下鈎遺跡や下長遺跡の水辺の祭祀で他の祭祀具と共に用いられていました。
下鈎遺跡では大型建物の柱穴に水晶片が埋められており、今で言う「地鎮祭」のような祭祀が執り行われたようです。
同じような例は、奈良県明日香村飛鳥寺でも見つかっており、搭心礎周辺から多くの玉製品が出ていることが報告されています。

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