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近江の玉作遺跡群のここが凄い!
このホームページでは玉作(たまつくり)に関する専門的な言葉が多く出てきます。
そもそも玉とはどんな鉱物でどのようにして作られたのか、どのように使ったのかなど、の予備知識がないと分かり辛いかもしれません。
玉作の基本知識と時代背景を、次の章「知っておきたい基礎知識」で解説しているので、そちらを先に読んで頂くと、理解の手助けになると思います。
日本でも初期、近畿で最初に玉作を始めた遺跡群
玉作は、縄文時代から行われていたものですが、管玉(くだたま)は弥生時代に朝鮮半島から稲作に続く第二波として、大陸の装身法と共に北九州に伝わったと言われています。
縄文時代にも玉製品を作っていましたが、技術的には不連続で高度な技術を要しました。しかし、縄文時代の石器製作技術ををベースに大陸の玉作技術が混ざり合って発展していきます。玉作は当時の先端技術であり、それを作る渡来人と共に伝来したのですが、弥生人はその技術を学び、自分たちで玉を作りだします。技術を習得した玉作集団は原石となる鉱物(碧玉:へきぎょく)を求めて各地に分散し、原石の産地でもある山陰、北陸で玉作が始まったと考えられています。
弥生時代前期末から中期初頭にかけて、まだ玉作が広がっていない早い時期に、その技術が近江南部に伝わり、原石を産出しないところで、近畿として初めて管玉作りが始まるのです。
当時の交通・運輸は水運に頼っており、びわ湖・淀川水系の水運の便が良く、畿内、瀬戸内などの消費地にも近い近江が加工基地として選ばれたのでしょう。
玉作遺跡が佐渡や出雲並みに密集している
玉作の遺構が見つかる遺跡は国内各地にありますが、狭い範囲に多くの玉作遺跡が密集して見つかる所はあまり多くありません。
弥生時代中期中ごろには山陰・北陸地方の広い地域の中核集落があるところで、散在的に玉作が行われていました。が、後期初めにかけて佐渡島では狭い範囲に密集して玉作遺跡が存在していました。
出雲玉作遺跡は主に古墳時代、さらに平安時代まで長く続く玉作遺跡ですが、特に古墳時代後期には密集して玉作遺跡が存在します。
近江南部の野洲川下流域では、弥生時代中期後半にはこれらと同じように玉作遺跡が密集して存在していました。さらに古墳時代にも同じように密集して多くの玉作遺跡がありました。原石を産出しないところで、多くの玉作遺跡が存在していたことは驚くべきことです。

【弥生時代の玉作遺跡の分布比較】

玉作遺跡分布の比較
弥生時代の玉作遺跡分布の比較

佐渡島の中央部に多くの玉作遺跡がみつかっています。東側の新穂玉作遺跡群が有名です。
近江でも南近江(野洲川下流域)に佐渡と同じような高い密度で玉作遺跡があることが見て取れます。
出雲地方の玉作遺跡は、この時代には数ヵ所しか見つかっていません。

【古墳時代の玉作遺跡の分布比較】

玉作遺跡分布の比較
古墳時代の玉作遺跡分布の比較

古墳時代には、出雲の玉湯川沿い。忌部川川沿いに多くの玉作遺跡がありました。
この時代には、佐渡島では玉作遺跡は消滅していました。
南近江では弥生時代よりやや内陸部に多くの玉作遺跡が密度高く存在していました。
弥生時代、古墳時代を通じて多くの遺跡があった
弥生時代、古墳時代といっても、共に数百年の玉作の歴史があります。
有名な佐渡ヶ島の玉作は弥生時代中期の終わりごろから後期の初めまでで、その後衰退していきます。
古墳時代の一大玉作産地の出雲は、弥生時代にはそれほど活動しておらず、古墳時代が最盛期です。
もちろん、同じ遺跡が延々と続くことはないのですが、狭い地域で眺めてみると、近江南部地域は弥生時代、古墳時代ともに狭い範囲に多くの玉作遺跡が見られるところです。
弥生時代後期には、この地の玉作遺跡だけではなく、近畿一円、北陸西部まで玉作遺跡が停滞します。
弥生時代中期末は、近畿、瀬戸内地方の社会全体が混乱し停滞した時期です。弥生時代後期後半になって、ようやく湖北地方で玉作が再開されます。この期間を除くと、玉の原石を産出しないところでこれだけ玉作遺跡が密集して続くのは珍しいことです。
歴史的な意義
弥生時代中期には大きな環濠集落である守山市下之郷遺跡が栄えました。環濠の中心部には竪穴住居はなく、南方系の高床式建物や大陸系の壁立建物などの大型建物ばかりが建っていることから、渡来人の交易センターの可能性があると論じました。同時期、守山市服部遺跡では360基もの大きな方形周溝墓が築かれます。大洪水による破壊も考慮すると500基を超える方形周溝墓があったと推定されます。それだけ大きな墓を築くことのできる、マンパワーと富があったことを示します。
それは、この地が地形的に西日本と東日本を結ぶ結節点であり、淀川水系〜びわ湖を通じて瀬戸内・畿内を山陰・北陸を結ぶ交通の要所であって、かつ、広大で肥沃な野洲川三角州があったからでしょう。
交通の要所というだけではなく、畿内と東海の両勢力を仲介する役回りもしていたようです。
そのような時代に、原石のないところに玉作工人を招へいし原石も取り寄せて玉作を始めたのか、あるいは玉作集団がこの地を選んだのか、いずれにせよ、この地域がいかに力を有し、富んだところであったかを物語ります。
古墳時代の玉作は、ヤマト政権による管理と統制がなされたと言われていますが、需要に供給が追い付かなくなり、地方豪族でも玉作が行われるようになります。野洲川下流域でも多くの玉作遺跡が存在します。それは取りも直さず、ヤマト政権の認知の下で玉作をしていたからで、野洲川下流域とヤマト政権の結びつきの強さを示すものです。
玉作遺跡のあるところ
近江の玉作遺跡の位置を図に示します。
琵琶湖周辺の内湖や川に近いところに玉作遺跡がありました。
近江の玉作地図
玉作遺跡のあるところ
近江の玉作関連遺跡群
滋賀県の埋蔵文化財関係部署で発行している報告書等で「玉作関連遺跡」として記載されているところを図に示します。
「玉作遺跡」の区分けは後ほど述べますが、出土遺物の多少にかかわらず、玉作関連遺物(原石や加工途中の品、工具、建物跡など)が見つかった所です。左図は弥生時代、右側は古墳時代の遺跡です。

弥生時代の近江の玉作遺跡 古墳時代の近江の玉作遺跡
弥生時代の近江の玉作遺跡 古墳生時代の近江の玉作遺跡

弥生時代の玉作関連遺跡はびわ湖南部、野洲川下流域に集中しています。あとは、湖北に大きな遺跡が見つかっています。 古墳時代の玉作遺跡の分布も同じような傾向ですが、湖西・湖東の遺跡は減ります。湖北に大規模な玉作遺跡が見られ、野洲川下流域の玉作遺跡は依然として多く密集しています。ただ、玉作遺跡とびわ湖の位置関係に変化が見られます。弥生時代は湖岸近辺から氾濫原にかけて存在していた遺跡が、びわ湖の自然環境の変化もあって、古墳時代には内陸部に移動し、氾濫原〜扇状地に立地するようになります。


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